実感運転に挑む

 ガスタービンとのかかわり、模型とのかかわり、エレクトロニクスとのかかわり、コンピュータとのかかわり、どれをとっても、どこに出しても、私の鉄道趣味的自分史は異色の歴史だったに違いありません。 

すべては”運転リアリズム”への道だったのです。 

気動車 私の鉄道趣味の始まりは小学6年秋。 そう、あのヨンサントオの年でした。 特急の120km/h運転、181系「しなの」デビューの年です。 友人から教えられた鉄道模型がきっかけ。 模型で遊んでいるうちに興味は実物へと広がりました。 当時まだ残っていた蒸気機関車から電車まですべてが興味の対象でした。 次第に気動車への関心が強くなり、電車と気動車の性能差をぼんやりと知るようになりました。 時刻表の運転時分で気動車が電車に負けるのが悔しくてしょうがなかったものです。 なぜ気動車は非力なのか、どのくらい差があるのか疑問だらけでした。 中学生になったころ、ガスタービン動車というものが作られたと知りました。 どうも高性能らしい。 またしても親愛なるディーゼルの敵が現れたのかと思っていましたが、あんな小さなエンジンならたかが知れていると侮っていました。 雑誌に書いてありました。 「最高150キロは出せるというエンジンは直径50cm、長さ1m30cm、重さ138キログラム・・・・・・」 150でるといっても電車よりは遅いし、たいしたことはないだろうと。 記事には出力が書いてなかったのです。 

 

1000馬力 しばらく後、雑誌にこの車両の本線走行試験が紹介されていました。 そこに衝撃的な一文があったのです。 「181系2両分に匹敵する1000馬力という大出力にものをいわせてぐんぐん加速する」。  なんとあんなものが1000馬力も出るのか! たった138kgしかないのではないか。 しかもエンジンカットしたキハ58を引っ張っている。 なんと気動車が1M1Tで走っている! あの強力型「しなの」でも8M1Tなのに! このころ、「すばらしい世界旅行」というTV番組で世界の高速鉄道が紹介されました。 未来への挑戦としてフランスのアエロトランや日本のリニアとともにカナダ、アメリカ、フランスのガスタービン動車が大々的に紹介されました。 「内燃機関」という専門誌にもガスタービン車への期待が大きく取り上げられていました。 自動車でも夢の低公害車として注目されていました(当時は無公害車とまでいっていましたが)。 

ついにガスタービンの恐るべきパワーを知ったのです。 

 

ジェット推進 このエンジンに非常に興味が沸いてきました。 構造を見てもなぜあんな仕組みで回るのかどうもピンときませんでした。 ちゃちな模型をブリキ細工で作りました(なんとアメリカには自作ガスタービンマニアがいる)。 模型用モーターをスターターにして灯油に点火。 もちろん回りません。 モーターで回している間は元気よく”ジェット”を噴出しているのに。 圧力釜の蒸気なら勢いよく回る自作タービンなのになぜまわらないのか。 もちろん当然の結果ですけど、当時は悔しくもあり不思議でした。 しかたないのでHO模型のジェット推進列車に乗せようかと思いました。 しかしお座敷簡易レイアウトでは脱線時に火災の危険があるので断念しました。 すでにプロペラ推進列車は試験済み。 このときもブリキ細工のプロペラは危険なものでした。 ジェット噴射の模型を作っていたらさぞかし勇ましい列車になっていたでしょう。 もちろん”ジェット効果”はほとんどなかったはずですけど。 余談ですが、蒸気タービン用ボイラーも試験しました。 容器はHO車載を考慮してフィルム缶。 熱源は出力制御の容易なニクロム線による電熱。 確かに蒸気は発生しましたが電熱では出力不足。 もちろんタービンは回りません。 

 

鉛車輪と電機子列車 このころ、わがグループの鉄道模型界ではレーシングカーのように競争するのが流行っていました。 大径車輪、ゴムベルト伝達による減速比の改造や電動機の高速回転[当時、わが鉄道が開発した弱め電機子や、より芯銅線ブラシなどの極秘技術(笑い)が可能とした]を開発し、優位に立っていました。 しかし、曲線を速く走れない。 模型界でも曲線通過速度が高速化のネックになっていたのです。 鉛鋳造台車による低重心化も試みられ、量産試作まで行われました。 鉛車輪まで試作されました! 電機子自体に車輪をつけた、つまり電動機の軸そのものが車軸というものまで構想され、1:1伝達によるトルク試験まで行われました。 当時これを「電機子列車」と称し、究極の駆動システムと期待したのです(なんと現在、鉄道総研では減速機構のない、まさに「電機子列車」そのままの駆動システムを研究している)。 しかし低重心化には限度があります。 このころ591系振子式試験車が現れました。 これも不思議でした。 仕組みを理解して早速それをもじったような装置を16番の模型で試作しました。 期待の曲線高速通過台車!

 

自然振子 結果は無残でした。 曲線通過許容速度は大きく低下し、どうして振子台車に曲線高速通過性能があるのか理解できません。 重心は曲線の外方へ変位し、こてんと見事にこけてしまうのです。 今思えば当たり前ですが、当時の”力学”では受け入れ難い事実だったのです。 雑誌さえも自然振子式が曲線通過性能を上げるがごとく書いていた時代でした。 

 

直流直巻電動機 数多くの車両自作と改造。 多数の電動機が犠牲となりました。 そのために経営危機に陥ったわが鉄道は電動機蘇生の研究に着手したのです。 巻線の修復、整流子の修復・・・・。 幾多の困難を乗り越え見事に成功しました。 蘇生が成功すれば意のままに改造したい。 模型用電動機のすさまじい改造が始まりました。 極太巻線による大出力電動機、後述の高圧電動機、鉄心厚の増大、強制冷却ファンの設置・・・。 そしてついに直流直巻電動機が高性能と信じ込んでいた当時のわが鉄道は永久磁石電動機に見切りをつけ(笑い)、無謀にも直流直巻電動機に改造してしまったのです。 これは見事に回りました。 24ボルトの昇圧運転が必要でした。 分巻電動機も試作し、性能比較を行い、ついに実車走行試験まで行われました。 しかし、永久磁石方式よりどうも性能が悪い。 これもあのころは不思議でした。 そしてなんと逆転ができない。 そうです、単に極性を変えただけでは反対方向に回らないのです。 驚いたことになんとこの電動機は交流で回ったのです。 びっくりしました。 電気ドリルを調べました。 掃除機をばらしました。 交流整流子電動機の存在を知りました。 後で知ったことですが、Oゲージなどは交流運転だったのです。 

 

変圧器 模型のコントローラーが死んでしまいました。 短絡事故。 変圧器をばらしました。 なんと入力側巻線と出力側の巻線がつながっていない。 完全に絶縁されているのです! なぜこれで電気が出てくるのか? 驚異のテクノロジー。 当時の幼稚なわが電気技術を超越していました。 まるでUFOでも捕獲して異星人のテクノロジーを目の当たりにした人類のごとく狼狽しました。 この仕組みは何物か、徹底した調査が始まりました。 変圧器は発電機と同じ理屈であり、電磁誘導という現象を知りました。 時に小学六年の終わり。 

 模型高速化に手っ取り早いのは昇圧。 変圧器の仕組みがわかればことは簡単。 自分で巻けば良いのです。 鉄心を作るのがたいへん。 針金を巻きました。 ドーナッツ型の試作機が完成。 しかし発熱が大きい。 なら既存の変圧器を利用し、2次側だけ意のままに作れば簡単。 解体屋で大きな変圧器を入手し、2次側に2mm径の銅線を巻きました。 成功。 23V、8A程度が安定して取り出せます。 もっと大容量へ。 しかし、これ以上太いエナメル線はなく、元になる変圧器も解体屋にはありませんでした。 ならば2mmの線を2本並列に巻いて11.5Vにして、これを2機作って直列にしてしまえ。 すさまじい電源の誕生。 実用最大出力は23V、20A。 短絡時の電流は2次側は推定140A。 計測できる電流計がありません。 100V電灯線の1次側は20Aを超え、電圧降下で部屋の蛍光灯が消えるほど! この変圧器の登場で普通では垣間見ることのできない高温の世界を覗くこととなりました。 乾電池から摘出した炭素棒は格好の炭素電極。 真鍮の作成、鉄と胴、あるいは鉛と銅の合金実験、鉛筆の芯(黒鉛)の融解、白銀に光り輝く3000度超の世界、沸騰する銅! ついにはホーム溶接さえ可能となり、はんだ付けならぬ銅付けでマスコンハンドルやブレーキハンドルの自作に応用されました。 

 

HO革命 電動機を自在に改造できる、変圧器も自在に改造できる。 これは望みの性能の車両を作れることを意味します。 まるで人ゲノムをすべて解明したがごとく。 恐るべき変革が訪れるに違いない。 当時、これらをHO革命と総称し、輝かしい未来が約束されたものと期待されました。 

 

化け物整流器 しかし、この大容量変圧器の出力を整流するものがありません。 そうこうしているうちに中古の大容量シリコン整流器を手に入れるチャンスが巡ってきました。 赤ちゃんのこぶしほどもある巨大な素子。 鈍く銀白色に輝くその勇姿は他の電気部品を圧倒する迫力を持っていました。 当時これを”化け物”と呼んでいました。 4つあわせてブリッジを組んで早速応用。 あの変圧器と組んで短絡しても平気でした。 これらは模型運転には設備が大きすぎるため当初は働き場所がなかなか与えられませんでした。 最大の活躍場所は急速バッテリー充電器。 バッテリーあがりの車の強い味方となったのです。 

 

高圧HO これらの技術は新たな応用を生みました。 模型鉄道の悩みはレールや車輪の汚れによる接触不良。 列車の走行は不安定になり、特に低速走行は苦しいものです。 ならば制御電圧を上げれば接触不良は軽減するはず。 車内に変圧器と整流器を搭載するのは経費的に難しい。 ならば高圧電動機を作ってしまえ。 小さな高圧変圧器をばらして非常に細いエナメル線を手に入れました。 早速電機子巻き替え開始。 改造電動機は100Vでもまだ電圧が低すぎるくらいでした。 みんなに話しました。 高圧車両を作ると。 本気で反対されました。 そんなものが走っていたら気楽に模型を眺めたり、保線もできない! みんな電気が苦手だったのです。 かくして高圧電動機は実車試験もなく消え去る運命となりました。 

 

運転台プロジェクト 鉄道模型をやった人は誰しも思ったことでしょう。 模型の運転とはいえ、実物と同じように運転したいと。 普通のコントローラーではだめです。 まずコントローラーは運転台の形をしていなければ。 そしてマスコンやブレーキ操作に対して模型があたかも大きな慣性があるように振舞わなければ。 既存技術を結集して試作されました。 スライダックス(可変単巻変圧器)を調整用に併用した181系運転台タイプ。 ノッチは5ノッチ、変圧器タップ切り替え方式。 マスコンハンドルは自転車の変速レバー! ブレーキハンドルは軽自動車の変速レバー。 しかしブレーキの電気回路に困りました。 181系のハンドルは在来車と異なり前後に動く方式で、回転角が狭いのです。 狭い回転角で制御できる大容量の抵抗器がない。 驚異的発想が登場しました。 学校で習った水の電機分解。 あれは使える! そうです、塩水による電解液抵抗器が試作されました。 相手が水なら加熱焼損の心配もない! 回転角による抵抗値変化率は塩水の濃度で調整、まさに画期的! 動作は成功。 同時に試作されたゴムベルト伝達全鉛台車の91系3連。 ゴムベルトのすべりは慣性的な動きの遅れを再現しなかなかのものでした。 

 しかし、トラブル発生! 漏水発生。 ブレーキ装置から水が抜けると急に制御が狂ってしまいます。 電解により生ずる塩素も鼻をつきました。  結局実用化は断念されました。 いよいよ次世代のテクノロジーが迫ってきていたです。 そうです、パワーエレクトロニクス時代の幕開け。 いよいよ電子制御の研究が始まったのです。 

 

391 昭和47年春、実物の世界ではキハ391が登場しました。 田舎ではなかなか試験結果を入手できませんでした。 いつ実用化されるのか、期待は膨れる一方でした。 昭和48年冬が近づいたころ、オイルショックが訪れました。 そしてすべてが消えたのです。 もう、ガスタービン動車が走ることはないのか。 

 

インバーター 上述の化け物電源は自動車のバッテリー相手に活躍していました。 同じころ、掃除機の交流整流子電動機(直巻)と車のバッテリー2個を使って電気自転車が試作されました。 重いバッテリーを荷台に乗せて何とかとろとろと走行試験に成功しました。 そして欲しくなったのが停電時の非常用電源。 バッテリーから100V交流を作り出せれば停電でもテレビを見られる! よその家が真っ暗でも我が家は蛍光灯がともっている!これを夢見て試作されたのが電動機整流子修復技術を応用した回転変流機。 確かに交流のように変圧器で昇圧できましたが、勇ましい火花が飛び散り、寿命が期待できません。 

 時代はエレクトロニクス時代。 次に挑戦されたのがトランジスタインバーター。 しかし当時のトランジスタは大電流に弱く、非常に高価。 ならばサイリスタ。 これは一度通電すると、遮断するのが一苦労。 なかなか良策が見つからず。 GTOはあまりに高価。 これらの研究は一進一退を続けましたが、運転台型コントローラー実現への重要な基礎となったのです。 

 

チョッパ制御 一方、模型を実物のように運転操作するプロジェクトはサイリスタ(SCR)チョッパあるいは交流位相制御とCR遅延回路との組み合わせた方式がほぼ射程に入っていました。 このころ模型界で流行っていたサイリスタびびり制御?ではないのです。 直流チョッパ制御です。 おりしも、模型に使うにはあまりにも場違いな超巨大サイリスタが手に入りました。 ターンオフ用の小ぶりのSCRと組んで早速試験開始。 直流回路でのサイリスタスイッチには結構手間取りましたが、真のチョッパ回路が完成。 降圧電流増幅も確認しました。 しかし、回路が面倒になるので結局構成が単純で安価な変圧器入力側位相制御方式の採用となったのです。 

 

広角度計器 運転台の形式は当然キハ391のものとし、181系や91系と共通性を持たせることとしました。 パネルは運転台の顔、重要な要素です。 以前から市販の高価なコントローラーには電圧計や電流計がついていました。 しかし、これらはありふれたメーターであり、運転台にある”あの”タイプではありません。 やはり”あの”タイプでないと満足できない。 高価な広角度計器を3つ購入しました。 実物と同じタイプですがなにぶん高価なため一回り大きさが小さいほうにしました。 文字盤がたいへんです。 391のものは91系以来の黒地に薄緑の蛍光色で目盛りや文字がかかれています。 廃車された自動車のメーターから文字盤を取り出すことも検討されましたが、文字盤に2km/h毎に目盛りの刻まれた高精度のメーターなど自動車にはついていません! 烏口などいろいろ試しました。 結局コート紙に塗装した黒塗料を削り取る方式に落ち着きました。 夜間運転時の蛍光が課題に残りました。 

 

マイコン しかし、次第に戦時色が強くなり、1年ほどすべての研究開発は中断されました。 しかし終戦の半年前からすでに戦後計画が進み始めました。 このころ、一部の電子雑誌に四ビットマイクロコントローラを使ったマイクロコンピュータ自作の記事が掲載されていました。 ---”コンピュータは国家なり”---これにすばらしい未来を感じました。 コンピュータが作れたら、”あれ”がやれる、シミュレータを作れる。 それならアナログ回路は要らなくなるかもしれない。 夢は次々に増幅したものです。 

 

鉄研 大学では鉄道研究会が結成されました。 創設メンバーに加わりました。 実車ではすでにタービンの余韻が残るのみでした。 鉄道への関心が薄れつつあった矢先です。 しかし、この仲間にはユニークなメンバーがたくさんいました。 ダイヤとか運転とかスピードアップに関心を持つ人が多く、強い刺激を受けました。 非常に理解のある機関士さん、運転士さんとも出会えました。 貴重な資料や体験を頂きました。 あの夢は強まる一方。 何とか運転できないか。 模型でよいから実物を運転するようにできないか。 

 

並のコントローラー AC100V側をサイリスタ位相制御する電源が完成しました。 変圧器は中学時代につくったものの巻きなおしで、さすがに2個直列は重量面であきらめ、出力23V、定格8A、10分定格(?)10Aとしました。 シリコン整流器は同じものです。 空前絶後(?)の模型用大容量コントローラの完成です。 入力側を制御したサイリスタは16Aのもの。 なんと1.6KWの制御装置。 剥き出しの巨大な自作変圧器と、こちらも巨大な放熱板に固定されたいかめしいシリコン整流器は注目の的でした。 充分過ぎる大容量のため、送風機などの強制冷却対策はまったく不要で、あたかも181系の屋根上ラジエータを髣髴させました。  学祭などの運転会で大活躍し絶賛されました。 長大な線路での電圧降下や長大編成列車もものともしない大出力がもたらす高い走行安定性、位相制御による”上品なびびり”がもたらすスムーズな起動と安定した超低速走行、電圧計と電流計はなんと広角度計器。 これらは当時の模型用コントローラーの概念を完全に超越したものでした。 唯一の欠点は脱線事故時の車両と軌道損傷。 発生する盛大なスパークはダイキャスト製の台車を焦がし、真鍮、ニッケル製のレールを溶損しました。 大容量の余裕と手抜きから過電流保護回路は省略されていたのです。 

 

再び高圧HO 長大なレイアウトに長大編成列車。 規模拡張が進むにつれて再び電圧降下と接触不良問題が浮上してきました。 今回は手間の関係と電子部品の価格低下で車載の電圧降下回路を検討しました。 この方式の利点をみんなに解説。 しかしここでも却下されました。 次は高圧パルス運転。 50Vから100V程度の電気をパルス上に通電し、車両上で平滑して運転。 速度制御はハルス幅及び周波数を制御して行う。 通常の車両の簡単な改造で対応可能と説明。 感電しないのかと聞かれました。 直流パルスだから電気マッサージ器のような感じと説明。 同意得られず。 やはりみんな電気は怖かったのです。 

 

マイコンの現実 次はマイクロコンピュータの応用。 しかし現実は厳しいものでした。 そのころのマイコンは1+1は速くても、1.3+5.43は苦労し、7.3/2.5となるともうたいへんでした。 こんなものではリアルタイムシミュレータにならない。 再び模型コントローラーの基本方式はOPアンプによるアナログ演算回路と簡単なトランジスタチョッパ方式に変わり、試作が始まりました。 ただし、マイクロコンピュータの研究も平行して行われました。 いつの日かの輝かしいデビューを夢見て。 TK80(NEC)を購入し、BSという拡張セットを組み合わせました。 。 

 

コンピュータとの新しいドラマが始まる・・・ 時は昭和54年、マイクロエレクトロニクス革命は驚異的でした。 幼稚園児の数遊び程度のプログラムを作るのに一苦労していたのもつかの間、瞬く間に科学技術計算をかろうじてこなせる性能を持つパーソナルコンピュータと呼ばれるものが登場したのです。 これは衝撃的でした。 PC8001です。 それ以前にもアップルコンピュータ社のAppleUはあったのです。 しかしこれは当時のコンピュータマニアの贅沢なおもちゃ。 単なる道具として使うにはあまりに高価過ぎました。 

 

機械語 鳴り物入りで登場した国産PC8001。 しかし技術情報がまったくありません。 ハードウェア内部については薄っぺらなマニュアルにバスコネクタの端子名が書いてあるだけです。 しかも勝手にいじって壊れたら保証なしという例の脅し文句。 標準装備のプログラム言語もこちらの用途には処理速度が遅くて困りました。 当時はインタープリタ方式だったのです。 人間の運転操作を読み取って運動方程式を解いて、その結果を模型用に”適正に”変換した上でD/A変換してパワー素子に渡す一連の過程をリアルタイムで行うには能力不足でした。 機械語を研究しました。 TK80以来の再研究です。 とても面倒でこれで実用プログラムを作っていたのでは埒があきません。 こんな面倒な作業は機械にさせてしまえ! なんと簡易コンパイラを作りました。 しかしコンパイラではまだ処理速度が不足します。 ついに独自ニーモニックを使った簡易アセンブラを作ってしまいました。 これらは数年もたった後、パソコン雑誌の紙面を何度も飾り、結構原稿料でうるおったものです。 夢の実現のために当時の遊び技術の粋が結集されていたのです! 

 

突貫工事 急激に進む技術革新。 しかし時間がありません。 昭和55年秋の学際には新型コントローラーを出すと決心していたからです。 貧乏学生にとってあまりに高価な、今回は実物大の広角度計器が新たに三つ手配されました。 詳しい内容は友人にも伏せていました。 うまく行かなければアナログ式遅延回路と組み合わせたトランジスタチョッパ方式でお茶を濁せばよいのです。 たとえこれでも画期的だったのですから。 相変わらず直流チョッパにこだわっていました。 しかし、ここまできたらやはり”あれを”という思いが離れません。 急ピッチの開発が行われました。 アナログ方式に対応したマスコンノッチ、ブレーキハンドル角度入力が成功。 ピーク60Aのトランジスタチョッパ回路完成、超低速走行に適正なスイッチング周波数、パルス幅の検討、フライホイールダイオードとリアクターコイルの影響などの検討へと進みました。 低速走行には平滑化は不利なのでコイルの採用は見送りました。 前照灯と尾灯の誤点灯を防ぎ、交流成分の除去のためフライホイールダイオードのみ採用しました。 いよいよコンピュータ制御信号との結合です。 ダイオードアレイによるノッチのデジタル変換、ブレーキハンドル角度のA/D変換完成、走行電圧制御用D/A回路完成。 電力制御試験完了。 予想外に順調。 シミュレータの部分と模型コントローラーの部分を結合し、ソフトの調整に入りました。 ブレーキハンドル操作中、ふとしたことで無造作につないでいた2000μFの大容量コンデンサがインターフェース基板上に倒れました。 38V程度に帯電したまま・・・

ピーという叫び声があがり、すべてが静かになりました。 コンピュータが、PC8001が死んだ。 

 蘇生の試みはまったく無駄でした。 もう間に合わない。 急遽アナログ方式に戻す突貫工事の開始。 PC8001は即入院。 学際2日目の午後遅くにやっと完成。 ひと抱えもある、ほぼ実物大の黒い運転台。 「おおっ!」、「うわあっ」、「ええっ」、「信じられん」、「ホントにブレーキとノッチがある」・・・・・

 

姿は現したが 驚愕の言葉の渦に出迎えられ、鉄研所有の大レイアウのメインコントロール台の中央に導かれました。 無論最初に運転する車両は決まっていました。 181系気動車が並べられ、11連の勇姿を颯爽と現したのです。 PC8001はなんとか蘇りました。 すべてのメモリーを代償にした上で。 そして会場のコントローラーの傍らで申し訳なさそうにCRT上に運転曲線を描画していました。 力強くノッチを進める駅長姿の運転士。 答えるように加速する181系11連。 しかし運転曲線は無関係に描かれていました。 

 

大反響 「本当の運転気分が伝わってきた」、「気分がええ!」。 運転体験者の反響は十分でした。 しかし、私の気分は晴れませんでした。 高価なメモリーの損失もありました。 しかし、それ以上のもやもやした気分。 あれは実物の運転とはまだほど遠い。 抵抗とコンデンサにごまかされた偽の運転だ!

 ある雑誌にこの運転会が紹介されました。 誰が書いたか、マイコンでシミュレートされた実感運転とか言うコメント。 

 

本物 再挑戦が始まりました。 翌年、PC8001周辺は急速に整備されて行きました。 悲惨な事故の教訓から拡張ユニットの増設が行われ、フロッピーディスク装置を導入、シミュレーション機能は急激に充実し、自動運転による運転曲線作図機能はますます強化され、多数の線路データと車両データを選択して運転できるまでになっていました。 もちろん391もありました。 前回の経験があるので模型運転モードを作るのは簡単です。 単なる電圧計でしかなかった速度計は実際の走行速度変化に対応するようにコンピュータで補正され、CRT上には各種の運転状況が表示され、現在の最新車両のモニター装置のような雰囲気となりました。 

 

デビュー かくして本システムはこの年の医学部祭に真のシミュレータ機能付きコントローラとしてデビューしたのです。 時に昭和56年。 本機はいたって順調でした。 もう実物で味わうことのできない、ガスタービン車の加速さえ疑似体験できたのです。 

 ノッチを進めます。 起動しません。 そうです、4秒ほど経たないとタービンのトルクが立ちあがらないのです。 少し間を置いて、みるみる運転台の広角度計器の針が動きはじめます。 CRTにデジタル表示された速度に正確に対応して振れます。 ノッチを進めると160km/hまで刻まれたスピードメータの針はぐいぐい振れて行きます。 ノッチオフ。 惰行に入り徐々に速度が落ちます。 ブレーキハンドルを前に押すと左下の広角度のシリンダ圧力計が触れどんどん減速。 

 次は181系。 55km/h、2ノッチで走行。 駅を通過し6ノッチ。 加速が悪い。 あ、そうか、直結のままだ。 ノッチをもう一段進め7ノッチ投入。 CRT上の表示は「直結」から「変速」に変わりぐんぐん加速。 80km/hを少し超えたあたりで両者が点灯し、やがて全車直結完了。 そのまま120km/hまで加速してノッチオフ。 

 まさに快感でした。 

 そしていよいよ本学学祭。 このときもうひとつ目玉が用意されていました。 B氏愛蔵の実物の82系気動車のマスコンユニットが本機に接続されました。 ノッチはもちろん、変速中立直結切り替えハンドルも正確に読み込まれました。 変速機のない391や自動進段の181系と異なり、マニュアル操作の在来型気動車の運転はまた面白いものでした。 在来の気動車や電車の運転がリアルになったのです。 なにぶん実物ですからその質感は圧倒的でした。 残念ながらブレーキハンドルはないので391のもので代用となりましたが。 

 

早過ぎた? まさに当時の運転マニア垂涎のシミュレータ機能つき模型コントローラ。 注目されたか、いや、外部の反応は予想外に静かでした。 鉄研会員は内容がわかっていました。 広大なレイアウト上で何度も熱心に発車の気分を味わい、駅進入、定位地停止にチャレンジ。 シミュレーション機能で制限速度遵守や定時運転にチャレンジ、非常制動で画面が真っ赤になりゲームオーバー。 まるで今「電車でGo!」や「トレインシミュレータ」などのゲームに興じる若者のように。 が、他の訪問者はこのシステムにあまり関心を示しませんでした。 

 意味というか意義というか、理解できなかったのでしょうか。 確かに仕方のない時代でした。 電子計算機研究会というクラブでさえすぐ隣の会場でコンピュータ占いやブロック崩しゲームの展示をやって満足していた時代です。 そんな会場でたかが鉄道研究会がコンピュータを据えて展示しているといっても単なるこけおどしくらいにしか思わなかったのでしょう。 鉄道模型へのコンピュータ応用といえばポイント切り替えや列車運行指令程度。 スイッチの制御というデジタル的発想の域を出ていませんでした。 運転シミュレーションなどという概念はいたって希薄で、アナログ量の計測制御といった応用は一般化していない時代でした。 

 

列車運転シミュレーション このシステムが持っていた運転曲線自動作成機能は実物の国鉄の基準運転時分の誤りを見つけるという活躍までしました。  運転計画課の職員が実際に使用している手書きの運転曲線図と見比べてその異常に気づいたのです。 余裕時分が入りすぎていたので実際の運転に支障が出るようなことはありませんでしたが。  また、ある業者がPC8001用パッケージソフト集を出すに際し、協力依頼がありました。 数本提供した中のひとつがこの運転曲線自動作図ソフト。 「列車運転シミュレーション」と名づけられたこの製品は南海電鉄など一部鉄道会社へ納入されました。 おそらくパソコンによる日本初の”市販”運転曲線自動作成ソフトだったでしょう。 

 

LSD計画 このシステム全体は「スーパーディーゼルシステム」と名づけられました。 そして早くも次のプロジェクトがスタートしたのです。 それは実車の走行音を伴って模型を走らせるサウンドシステム、蒸気機関車や内燃車で煙を発生させるスモークシステム、模型電動機の電機子または車輪の回転を車上で光学的に検知し、無線でコンピュータに入力する遠隔車速検知完全実速度運転システム、究極は車載小型カメラからの前方映像伝送システムであったのです。 カメラについては焦点深度とサイズが問題となりました。 研究が進むにつれ、当時はまだ16番車両の車内に搭載可能なビデオカメラがないことがわかり当面お預けとなりました。 回転検知については基本的な目処が立ち、小型FMテレメータの試験が行われ、ノイズ除去が課題となりました。 また、車上の定電圧確保のため、数KHz程度の室内灯常時点灯技術を応用することに決まりました。 このプロジェクトがもたらすであろうシステムは「ラグジュアリアススーパーディーゼルシステム」と呼ばれ、LSD181と呼称されました。 まるで麻薬のような響きを持って。 

 

車載カメラかグラフィクスか 究極は運転台から見た景色を再現したい。 ではどうするか。 HO車両に載るほどの小型カメラができ、映像伝送ができさえすれば実現します。 しかし、現実にはまだカメラが手にはいらない。 たとえ手に入っても焦点深度の関係で映像は不自然にならざるを得ない。 もうひとつの可能性がグラフィックによる再現。 しかし、コンピュータの性能が途方もなく足りない。 しかしすでに明るいニュースが届いていました。 インテルは8087という数値演算コプロセッサを発表していました。 これは当時のちょっとしたメインフレーム並の処理速度がありました。 PC8001などと比較すると最高1000倍近く浮動小数点演算速度を加速できる! もうひとつはNECの開発したμPD7220という世界初のグラフィックディスプレイコントローラーLSI、GDC。 今では想像もつかないほど貧弱だった当時のパソコングラフィックス。 GDCはパソコンを当時1000万円以上していた高性能グラフィックターミナル並に変えるかもしれないといわれていました。 両者への期待はきわめて大きいものでした。 これらを組み合わせたらワイヤーフレームなら3次元の絵でもリアルタイムで動かせるはず。 今ではこっけいに聞こえるでしょうが、当時はまだそんなことが夢だったのです。 おそらく次の世代のパソコンにはこれらが搭載されるはず。 模型運転は車載カメラで。 シミュレーションはグラフィックスで。 方向は見えつつあったのです。 

 

PC9801 しかし、いつまでも平和な学生時代が続くわけでもありません。  急激に開発時間はなくなってしまいました。 LSDプロジェクトは遅々として進みませんでした。 その後、コンピュータはPC8801に変わり、OBとして出席した昭和57年11月の学祭には目玉を用意することもできませんでした。 SDSに進歩がない、それは許されることではありません。 唯一の進歩、それはまだ一般市場には出ていなかったPC9801を接続して登場させることでした。 8ビット機から16ビット機への移行。 歴史的瞬間でもあったのです。 評価用マシンを使っての超短期開発。 インターフェース回路を作る時間も基板すらもないため、コントローラーとのインターフェース、ノッチ、ブレーキ読み取りなどのA/D変換、シミュレーション演算結果のD/A変換はPC8801で行い、通信回線でつながれたPC9801がシミュレーションの運動方程式を解いたりCRT表示を担当するという物々しいシステムとなっていました。 それでも動きは以前よりかなりスムーズになりました。 並列分散処理と16ビット機の威力です。 この学際では興味を示す人がかなり増えていました。 パソコンという言葉が徐々に浸透し、認知が急激に高まりつつある時代でした。 見物に来た電算研の部員がPC9801という型番を読みながら不思議そうに話していたのが印象的でした。 「PC9801ってあったっけ?」、「98? 88でしょう」、「いや、98と書いてある」・・・・・まだ内緒?のマシンだったのです。 存在を教えるわけには!?

 GDCも載っていました。 8087も増設しました。 程なくアセンブラもできました。 GDCを機械語でダイレクトにアクセスして8087の機械語で浮動小数点演算プログラムを書く! 感動的な、いや衝撃的なスピードでした。 これならきっとやれる! ワイヤーフレームグラフィックスとはいえ、擬似前方展望の実現間近! しかし、学生時代のような潤沢な時間は永遠に訪れることはなかったのです。 私の中で鉄道趣味も徐々に斜陽化を迎えました。 模型を動かすこともなくなりました。 実物に乗ることすらほとんどなくなっていまいました。 かくしてLSDプロジェクトは実現されることのない、幻のプロジェクトとなったのです。 

 

 

 

 

 

 

 

 


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